前田 修吾
意図と行為の関係は因果関係であるという、古くからある常識的な説明は、デイヴィドソ ンが主張するように、正しいのだろうか。車のエンジンをかけたり、散歩をしていて、ふ と空を見上げたり、といった行為すべてに、行為に先行する意図というものが存在するの だろうか。
本論ではシステム論的な観点から意図と行為の関係を明らかにしたい。
意図と行為の関係を論じる前に、まず、後期ウィトゲンシュタイン以前の伝統的な行為概 念について触れておきたい。手を上げる、新聞を読む、ビールを飲む、などはいずれも行 為である。一方、石につまづく、寒さにふるえる、などの単なる身体的な振舞いを行為と 呼ぶことはできないだろう。では、行為と振舞いを区別するものは一体何だろうか。行為 とは一体何であるのか。
伝統的な行為概念では、振舞いに先行する意図が、その振舞いの原因をなすということを もって、その振舞いを行為であるとする。例えば、あくびをする、という振舞いに、何ら 意図が見い出されない場合は、それは単なる身体的な振舞いに過ぎないのであり、逆に、 つまらない話に退屈していることを話し相手に伝えようという意図が見い出されるのなら ば、それは行為であるとみなすことができる。つまり、ある振舞いが行為であるかどうか は、その振舞い自体の性質によるのではなく、その振舞いに先行する意図があるかどうか によって区別されるのである。
このような伝統的な行為の説明には、大別して二つの批判がある。一つは伝統的な行為の 説明によって提示される意図の概念そのものに対する批判であり、もう一つは意図と身体 の振舞いの間に措定される因果関係に対する批判である。「明日、郵便局へ行って切手を 買おう」などと思うことがあるのは否定できない事実である。しかし、伝統的な説明にお いて想定されている意図とはこのような意図ではない。それはすべての行為を行為たらし めている意図なのであり、したがって、意図的行為に常に先行するものとして規定されて いるのである。しかし、蜜柑の皮を剥く、本の頁を捲る、缶詰の蓋を開ける、といった意 図的行為すべてに対して先行する意図を取り出すことができるだろうか。私はまず蜜柑の 皮を剥こうと意図し、そして蜜柑の皮を剥くのだろうか。これは不自然な考え方のように 思われる。また、仮にそのような意図を取り出すことができたとしても、その意図と行為 の関係は因果関係とは異なるのではないか。実際、金属の加熱とその膨張といった自然的 因果関係と、意図と行為の関係は随分性質が異なるように思われる。
では、意図とは、そして行為とは一体何であり、意図と行為の関係はどのようなものなの だろう。以下では、アンスコムの反因果説とデイヴィドソンの因果説について考察する。
アンスコムは「意図的行為とは、ある意味で用いられる『何故?』という問が受け入れら れるような行為だ」と定義する。ここでいうある意味とは、その答えが行為の理由を与え るようなものである。しかし、この定義はそれだけでは不十分である。何故なら「行為の 理由とは何か」ということがまさに問題となっているのだから。 *1
そこで、アンスコムはこの問が受け入れられない場合を考えることによって、意図的行為 という概念を明らかにしようとする。 *2
まず、そのような行為をしていることを知らなかったという場合、この問は受け入れられ ない。例えば、板を鋸で挽いている男に、「何故鋸でキーキー音をたてて隣人を悩ませる のか」と尋ねた時に、「私はそのようなことをしていると知らなかった」と答える場合が 考えられる。この時、「何故鋸で板を挽いているのか」と尋ねた場合には、「私はそのよ うなことをしていると知らなかった」という答が返ってくることはないかもしれない。し たがって、われわれはある行為を一つの記述のもとでは知っていても、別の記述のもとで は知っていない、ということがありうる。つまり、この問が受け入れられるかどうかとい うことは、行為の記述の仕方と密接に関わっているのである。
この問が退けられる第二の場合は、「自分がそうしていることを観察によって知った」と いう場合である。ここで、アンスコムの観察に基づかない知識という概念について触れて おく必要があるだろう。通常は人は観察に基づかないで自分の四肢の状態を知っている。 例えば、自分の膝が曲がっていると判断する場合、何か膝にうずきを感じてそれによって 判断するわけではない。独立に記述できる感覚に基づいて判断がなされる場合に、観察が 成立するということができるが、自分の四肢の状態を知る場合には、そのような観察は成 立していないのである。これに対して、例えば腸の蠕動などは観察によってはじめてそれ を知り得るのであり、このような場合には、「何故?」という問は退けられる。
第三の場合は、その問に対する答が、単に振舞いの原因を答えるものであるような場合で ある。例えば、膝頭を叩いてに足が上がった場合に「何故そうしたのか」と問えば、「そ れは反射運動だ」といった答が返ってくるだろう。このような場合は問は退けられたこと になる。
このようにアンスコムは意図的行為を内在的な意図によって規定する考え方を退け、「何 故?」という問がある振舞いに適用できることによって、その振舞いを意図的行為とみな す。
ある行為を意図的なものとして記述する場合、為された時点におけるその行為に付随する 何かあるものを付与しているのではない。行為を意図的と呼ぶことによってそれを意図的 行為のクラスに帰属させているのであり、したがって、私が規定した意味で「何故?」と いう問がその行為に適用できることを示しているのである。
では、「何故?」という問の答で述べられる意図とは一体何なのだろうか。それを理解す るためには行為の記述と意図の関係について再び触れる必要がある。Xという記述を与え られた行為について「何故Yを為したのか」と問うた時、その問に対する答として「Yを為 すためだ」と別の記述が与えられたならば、「彼はYを為したのだ」と言うことができる。 例えば、「何故あなたはポンプを押しているのか」という問に対して「水槽に飲み水を補 給するためだ」という答が与えられたならば、「彼は水槽に飲み水を補給している」と言 うことができる。つまり意図による説明は行為を再記述することによって、他のコンテク ストにその行為を位置づけ、解釈を与えるのである。 *4
逆に、「何故Xを為したのか」という問は、それ自体が「Xを為そう」という意図を前提と している。したがって、「特に理由はない」という答も少なくともXを為そうという意図 を認めているのであり、この問を受け入れていると言えるだろう。
さて、ここで我々は内在的な意図を措定することなく、行為という概念を規定することが できる地点に立つことができたことになる。振舞いに対してある意味で用いられる「何故 ?」という問が受け入れられるような場合、その振舞いは意図的行為であるとみなされる。 また、振舞いがある記述のもとでは意図的行為であり、他の記述のもとではそうではない ことがあり得る。そして、ある振舞いが意図的行為であるとみなされるような記述が一つ でもあれば、その振舞いを行為であるとみなすことができるだろう。例えば、「靴底を磨 り減らす」という記述のもとでは意図的行為とみなすことができない振舞いも、「散歩を する」という記述のもとで意図的行為とみなすことができるかぎりにおいて、行為とみな されるのである。
デイヴィドソンは行為の意図による説明を行為の再記述であるとしたアンスコムの見解を 認めた上で、なおも行為の理由を行為の原因であるとする立場を取る。なぜ彼がそのよう な立場を取らざるを得なかったのかを考えるために、菅豊彦が示している例を見ることに してみよう。
私が、料理をした人を怒らせるために、彼の作ったスープを飲むとき、まずそうに顔をし かめようと意図する。そしてスープを飲んだところ、そのスープがあまりにもまずいので 思わずまずそうに顔をしかめたとする。--- しかし、我々はこの動作を意図的行為とは言 わないであろう。意図的行為であるためには、「右手を上げようと意図し、そして右手を 上げた」ということだけでは不十分であり、「右手を上げようと意図し、それ故右手を上 げた」ということが成り立たなければならないのである。そして、この「それ故」という 表現で我々が把握しているのは広い意味での因果関係であると思われる。
(参考文献[kan]p.129)
この例によってデイヴィドソンがなぜ因果性を再び導入せざるを得なくなったかがよくわ かるだろう。確かに「右手を上げようと意図し、そして右手を上げた」という表現と「右 手を上げようと意図し、それ故右手を上げた」という表現の間に横たわる溝は深い。アン スコム自身はけっして「右手を上げようと意図し、そして右手を上げた」ということだけ で意図的行為とみなされると主張しているわけではないが、ここではひとまずデイヴィド ソンに従って彼の因果性による説明を見てみることにしよう。
デイヴィドソンは行為と理由の関係を次のような二つのステップで説明する。 *5
その性質を備えているという行為者の信念から成り立っている。
賛成的態度と、体操すれば減量できるという信念によって成り立っているということを示 している。この賛成的態度という概念は、欲求、欲望、衝動、誘惑、道徳的見解、美の基 準、経済上の価値判断、社会的慣習、個人的ならびに公共的な目標や価値、などといった さまざまな概念を含むものとして規定されている。これは子供好きといった性格的特徴か ら、突然に女性の肘に触れたくなるといった衝動までを含んだ広い概念であるが、基本的 にはアリストテレスが行為と理由の間の関係を説明するために因果的要因として導入した 欲求の概念の延長線上にあるものである。一方、信念というのは、まさに彼が為したその 行為が、彼が賛成的態度を持つところの行為を実現するということに対する信念である。 たとえ彼が女性の肘に触れることに対して賛成的態度を持っていたとしても、それだけで は彼が体操することの理由にはならない。それが行為の主たる理由になり得るのは、彼が、 体操することによって、女性の肘に触れることができるという信念を持っている場合に限 られるのである。
きないために導入されている。例えば、減量することに対して賛成的態度を持ち、体操す れば減量できるという信念を持っていたとしても、それは体育の授業の時に体操する理由 にはならないだろう。したがって、ここで因果関係を導入せざるを得なくなる。そして、 賛成的態度や信念は状態であって出来事ではないため、原因とはなり得ないという反論に 対しては、賛成的態度や信念が心の中に生じることは出来事であるため、このような心的 出来事も原因となる得るという形で答える。
結局、デイヴィドソンの主張は伝統的な行為の説明を洗練させたものであると言うことが できるだろう。しかし、私としては、彼の主張に異を唱えたいと思う。以降はしばらくの 間、そのための準備として、オートポイエーシスという概念とルーマンによる社会システ ム論へのその応用を見ることにしたい。
オートポイエーシスはもともとはマトゥラーナとヴァレラによって生物学の分野において 提唱された概念で、生命の有機構成を記述するために考え出されたものである。
マトゥラーナとヴァレラはオートポイエティック・マシンを次のように定義している。
オートポイエティック・マシンとは、構成素が構成素を産出するという産出(変形および 破壊)過程のネットワークとして、有機的に構成 (単位体として規定)された機械である。 このとき構成素は、次のような特徴をもつ。(i)変換と相互作用をつうじて、自己を産出 するプロセス(関係)のネットワークを、絶えず再生産し実現する、(ii)ネットワーク(機 械)を空間に具体的な単位体として構成し、またその空間内において構成素は、ネットワ ークが実現する位相的領域を特定することによってみずからが存在する。
(参考文献varela]p.70)
ここでオートポイエティック・マシンをオートポイエティック・システムと読み換えても 差し支えないだろう。オートポイエティック・システムは自己の構成素をみずから継続的 に産出し続けるように作動する。これがオートポイエーシス(自己制作)と言われる所以で ある。
さらにマトゥラーナとヴァレラは次の4点によってオートポイエティック・システムを特 徴づけている。
オートポイエティック・システムはプロセスの中でどのようにその形態を変えようとも、 あらゆる変化をシステムの有機構成*6の維持へと統御する。
オートポイエティック・システムは絶えず産出を行い有機構成を保つことによって、観察 者との相互作用とは無関係に同一性を保持する。
オートポイエティック・システムは自己産出のプロセスの中でみずからの境界を決定する。 一方、アロポイエティック・システム*7の境界は観察者によって決定される。
オートポイエティック・システムは構成素が構成素を産出するというように自己準拠的に 閉じたネットワークを形成する。したがって、オートポイエティック・システムは入力も 出力もない。
個体性の問題について、例えば、机の上のコップにも「観察者との相互作用とは無関係に 同一性を保持する」ということが妥当するように思われるかもしれない。しかし、ここで 語られる個体性とはそのような意味ではない。このことは境界の自己決定についての理解 と関わる問題である。
ルーマンは観察という概念をスペンサー=ブラウンの区別(distinction)と指示(indication) という用語を用いて定義している。観察とはあるものを他のものと区別した上で、そのあ るものを指し示すことである。*8 アロポイエティック・システムにおいては、この区別は(システムとは別の)観察者によっ て導入される。つまりアロポイエティック・システムは自己観察を行わない。しかし、オ ートポイエティック・システムは自己準拠的な産出過程の閉じたネットワークを形成する ことによって、自らを環境と区別し、そして自分自身を指し示す。つまり心理システムに 限らず、あらゆるオートポイエティック・システムは観察を行うのである。したがって、 ルーマンの観察概念を用いることによって、境界の自己決定とはシステムの自己観察であ ると言うことができる。ここで、区別と指示という用語は、より哲学に馴染深い、差異化 と同一化という用語で言い換えることができるだろう。机の上のコップは、環境からの差 異化を観察者に頼っているために、観察者との相互作用と無関係に同一性を保持しえない のである。
さて、ここで問題なのは入力、出力の不在とはいかなる事態かということである。システ ムが自己を維持するためには環境との入出力が不可欠であるように思われる。一体、環境 との間に物質交換を行わない細胞があるだろうか。
入力、出力の不在という表現は、システムが環境との入出力によって規定されず、自己準 拠的に閉じた産出関係によって規定されているという事態を表している。例えば、細胞は、 その組織を維持するために必要な構成素(タンパク質、脂質、炭水化物、核酸)を不断に産 出する。この構成素の産出関係は自己準拠的に閉じたネットワークを形成する。つまりシ ステムはその構成素に関しては環境との間に入力も出力も持たない。しかし、細胞と環境 との間にエネルギーや物質の交換がないわけではない。細胞はみずからの構成素を産出す るために必要なものだけを環境から摂取する。細胞と環境との間のエネルギーや物質の交 換は細胞によって制御されるのである。
ルーマンはこのマトゥラーナとヴァレラのオートポイエーシス概念を基本的に継承した上 で、新たに複合性(複雑性 Komplexita"t)という概念を導入する。複合性というのは要 素間の関係の複合性であり、要素が増えるにしたがって複合性は飛躍的に増大する。そこ でシステムが形成されることによって、複合性が縮減され、システムと環境との間に複合 性の落差が生まれる。この複合性の縮減という事態はシステムにおいては、その構成要素 が複合的なものではなく一つの単一体としてみなされるということによっている。例えば、 細胞システムにおいてはタンパク質や核酸といった構成要素が一つの単位体とみなされ、 構成要素であるタンパク質や核酸の複合性を顧慮しないがゆえに複合性が縮減されること になる。
ところで、システム間の関係を扱おうとするとオートポイエーシス論は一つの困難に突き 当たることになる。
要素システムが複合して、複合システムが新たなオートポイエティック・システムとなっ たとする。要素システムがオートポイエティック・システムであり続けるならば、要素シ ステムは自己産出しているはずであり、高次のオートポイエティック・システムによって 産出されたりしないはずである。したがって複合システムと要素システムが共にオートポ イエーティック・システムであることはできない。複合システムがオートポイエティック であるとすれば、要素システムの自律性が失われてしまうし、逆に要素システムがオート ポイエーシスを維持するとすれば、複合システムをオートポイエーシスとして構想するこ とができなくなってしまう。 *9
この問題はシステムの相互浸透という概念を導入することで解決できる。例えば人間と社 会という二つのシステムを考えてみよう。社会システムが人間によって構成されるとする と、人間の自律性が失われることになってしまう。しかし社会の構成素が個々の人間では なく、コミュニケーションであるとしたらどうだろう。そこにはもはや単純な要素-複合 体関係は見られない。社会システムから見れば、人間は環境としてシステムに浸透してい る。他方、人間の側から見れば、社会システムは人間に環境として浸透している。このよ うなシステム間の関係をルーマンは相互浸透(Interpenetration)と呼んでいる。相互浸透 においてシステムの階層関係は消滅し、一切の還元主義は不可能になる。 *10
では、相互浸透の浸透とはどのような事態を意味しているのか。
あるシステムと他のシステムとが互いに他方の環境となっているばあいに、あるシステム が、((*他方のシステムが新たに編成されるために*))、そのシステム自体の((*複合性*)) を提供するばあいを浸透(Penetration)と名づけることにしたい。 (参考文献((<[luhmann84]>))p.336)
つまり、あるシステムが他のシステムの環境として、他のシステムが成立する前提条件に なっている場合に、浸透という言葉が用いられるのである。例えば社会は人間なしでは成 立しないし、狼に育てられた少女の例を引くまでもなく、人間も社会なしには成立しない。 互いに互いを不可欠な環境として必要としているのである。このことは社会のオートポイ エーシスと矛盾するわけではない。社会は完全に自律的な一個のシステムであるが、けっ して自足的ではないのである。
ルーマンは初期の論考では社会システムの構成要素を行為であるとしていた。しかし、後 に彼は社会システムの構成素をコミュニケーションとする考えに到っている。これはルー マンの社会システム理論における重要な転回点である。では、なぜ彼は社会システムの構 成要素を行為ではなくコミュニケーションであるとするのか。それを理解するためには、 まずルーマンのコミュニケーション概念を把握する必要があるだろう。
通常、コミュニケーションは情報が送り手から受け手に移転されるというメタファーによ って説明される。この移転メタファーにおいては、「移転されるもの」の同一性が誇張さ れ、移転される情報が送り手と受け手によって同一であるかのように考えられてしまう。 実際、情報が同一であることもあり得るのだが、それはコミュニケーションの過程の中で のみ明らかになることである。また、移転メタファーは送り手が受け手に何かを伝えると いう二極の過程であると示唆している。
ルーマンはこのように問題を孕んだ移転メタファーを放棄し、コミュニケーションを情報 ・伝達・理解という三極の選択過程の統一であるとする。コミュニケーションに際して、 送り手は伝える情報を諸可能性のレパートリーの中から選択し、さらに、その情報の伝達 の仕方を選択する。例えば、食事の提案という情報を選択し、「お腹空かない?」といっ た伝達方法を選択する。ここでさらに、受け手によって第三の選択が、情報と伝達との間 の区別に基づいて行われる。この選択がコミュニケーションにおける理解という局面であ る。例えば、先のコミュニケーションの例では食事の提案として理解されることもある得 るし、単なる質問として理解されることもある得る。前者の場合は「じゃあ、ハンバーガ ーでも食べようか」といった形で、あるいは後者の場合なら「いや、空いてないよ」とい う形でさらに次のコミュニケーションが生み出され、コミュニケーションの自己準拠的な 産出過程のネットワークが形成される。このようにして社会システムはオートポイエーシ スを実現することになる。
コミュニケーションにおける理解という局面をもう少し詳しく見ると、個々のコミュニケ ーションにおいては理解と誤解を区別できないことに気づく。コミュニケーションにおけ る理解を誤解として修正するためには、そのコミュニケーションに接続する、そのコミュ ニケーションについてのコミュニケーションが必要とされるのである。例えば、「お腹空 かない?」「いや、空いてないよ」「食事に行こうという意味で言ったんだけど」「それ はわかってるけど、今は行きたくないという意味で言ったんだ」などというように。コミ ュニケーションは常に何かについてのコミュニケーションであり、その意味でコミュニケ ーションは意識と同様に志向性を持っているが、コミュニケーションがコミュニケーショ ンを志向する時、そのコミュニケーションは再帰的コミュニケーションであると言うこと ができる。コミュニケーションの理解が再帰的コミュニケーションによってのみ、調整さ れるということは、メタ商品である貨幣も一つの商品であらざるをえないのと同様に、メ タ・コミュニケーションも一つのコミュニケーションであらざるを得ないということを示 している。このことについては後で知覚の因果説と結びつけて再び触れることにしたい。
以上のようなコミュニケーション概念を導入すると、もはやコミュニケーションを個々の 行為に還元することはできないことは明かだろう。そして、行為ではなくコミュニケーシ ョンだけが、必然的かつ本来的に社会的なのである。
では、コミュニケーションと行為との間の関係はどのような関係なのだろうか。ルーマン はコミュニケーションと行為の関係が二つの面を持っていることを指摘している。一つは、 コミュニケーションにおける伝達行為とコミュニケーションの関係である。
コミュニケーションはけっして行為に還元されないことはすでに述べたが、それにもかか わらず、社会システムはコミュニケーションを伝達行為として扱う。なぜなら、「コミュ ニケーションは、直接には観察されえないのであり、コミュニケーションは推定されるこ とによってしか接近されえない」(参考文献[luhmann84]p.259)からである。 コミュニケーションがコミュニケートされる時は、コミュニケーションそのものとして直 接的に扱われるのではなく、伝達行為として、ある人格に帰属させられることになる。
コミュニケーションと行為のもう一つの関係は、直接そのコミュニケーションとは関係を 持たない行為がコミュニケーションにおいて情報あるいはテーマとして扱われる場合の関 係である。
それぞれの行為は、帰属の過程をとおして構成される。行為が成立するのは、なんらかの 根拠からか、なんらかのコンテキストにおいて、なんらかのゼマンティーク(「意図」「 動機」「利害関心」)によって、選択がシステムに帰属されることによってなのである。 この行為概念は、心理的なものを顧慮しないがゆえに、行為についての十分な因果的説明 をおこないえないことは明白である。 --- したがって、個々の行為が何であるのかとい うことは、なんらかの社会的描写に基づいてしか突き止めることができない。だからとい って、行為が社会的状況においてのみ可能であるというのではないが、個々の状況におい て、個々の行為が一連の行動の流れから際立ってくるのは、なんらかの社会的描写におい て個々の行為が行為として確認されるばあいにかぎられるのである。そのようにしてのみ、 行為は、その統一体を獲得するのであり、その始まりと終わりを見いだすのである。もっ ともそのさい、生命のオートポイエーシス、意識のオートポイエーシスあるいは社会的コ ミュニケーションのオートポイエーシスは進行し続けている。
つまり、ある振舞いを行為とみなすかどうかは、内在的な意図が振舞いに付随しているか どうかではなく、社会的状況において、すなわち、コミュニケーションにおいて、選択が 行為者に帰属されるかどうかによるのである。
ただし、行為が社会的状況においてのみ可能であるというのではないということには注意 が必要である。ひとりで行う行為、例えば、ひとりで散歩をするといった行為も、コミュ ニケーションにおいて、特定の記述を与えられることによって、はじめて行為とみなされ 得るという意味で社会的行為なのである。
意図と行為の関係は、因果関係でないとしたら、いったいどのような関係なのだろうか。 菅豊彦は因果説を基本的に擁護する立場を取っているが、単純に意図が原因で行為が結果 となっているとする説は否定している。菅は「右手を上げようと意図し、右手を上げる」 という表現は実は不正確な表現であると指摘する。この場合、因果関係の結果となってい るのは、右手を上げるという行為ではなく、右手が上がるという身体の動きだと言うので ある。
では、右手を上げようという意図と、右手を上げるという行為との関係は何なのか。その 問に対して、菅は、奇妙に思えるかもしれないが、それは同一性の関係であると言わざる をえない、と答える。例えば、私がコロッケにソースをかけようとして、誤って醤油をか けてしまったとする。この時、私は、まずコロッケにソースをかけようとし、次にコロッ ケに醤油をかけたわけではない。この場合、コロッケに醤油をかけるという振舞いを、コ ロッケにソースをかけようとした振舞いとして再記述しているのであり、「コロッケに醤 油をかけた」という記述と「コロッケにソースをかけようとした」という記述は同一の行 為を指し示しているのである。しかし、右手を上げようという意図と右手を上げるという 行為の場合はどうだろうか。この場合は、振舞いが再記述されているわけではないだろう。 単に同一性の関係であると言っただけでは、意図と行為の関係が明かになったとは思われ ない。
そこで、私は、意図と行為の関係は構造と過程の関係である、と主張したい。この構造 (Struktur)と過程(Prozess)という用語はルーマンの用語である。行為は時間の流れの中 で過ぎ去ってゆく不可逆的な出来事から成り立っているという意味で、過程であるとみな すことができる。社会システム(すなわちコミュニケーション)はそのような行為という過 程を、意図という構造を使用して記述する。「右手を上げよう」という行為の記述は、そ の振舞いに「右手を上げよう」という意図を見い出すことによって成立しているのである。 この意図を見い出すということは、心理システムの出力として意図を社会システムが受け 取るということを意味するのではない。むしろ意図は行為の観察に際して、社会システム によって産出されるのである。意図によって行為は行為者に帰属される。したがって、意 図の問題は責任の問題と深く関わっている。行為が帰属されるのは必ずしも個人であると は限らない。例えば、戦争という行為がしばしば国家に帰属されるように。それでは、行 為とは一体何なのだろうか。行為はやはり意図によって規定されなければならないように 思われる。しかし、それは行為の伝統的な説明における内在的な意図による規定ではない。 もしそのような規定を採用すれば、我々は戦争のような集団的な行為を把握することがで きなくなってしまうだろう。したがって、行為を別の仕方によって規定することが必要と される。行為は社会システムにおいて意図によって行為者に帰属された振舞いなのである。
では、社会システムがどのように行為を観察するのか、詳しく見てみることにしよう。 行為が観察される場合、まず第一次的観察がなされる。例えば、ある行為が「スイッチを 入れる」と記述されたとしよう。ここでは、「スイッチを入れる」/「スイッチを入れな い」という区別が導入され、そして「スイッチを入れる」が指し示されている。第一次的 観察では行為は単層的な脈絡をもったものとして現れる。したがって、第一次的観察にお いては、行為の意味あるいは価値は二値的である。そこで、第二次的観察、つまり観察に ついての観察がなされることによって事態は異なってくる。例えば、「なぜスイッチを入 れたのか」という問が発せられ、それに対して「明かりをつけたのだ」という答えが与え られるかもしれない。第二次的観察がなされると、第一次的観察でなされた区別に加えて、 さらに別の区別が導入されることになる。この場合、「明かりをつける」/「明かりをつけ ない」という区別が導入され、「明かりをつける」が指し示されるている。第二次的観察 のレベレでは行為は重層的な脈絡を持ったものとして現れる。このことは「いかなるアル キメデス的視点によっても相互の転換や比較ができないような多数の区別、あるいは区別 のある多数の脈絡が存在するということを意味している。」 (参考文献nassehi]p.121) *12
ここで、デイヴィドソンが挙げている次のような例について考えてみよう。
「私はチャールズを苦痛から救いたいので彼に毒を盛っているのである」という形の言明 の真理に関して、あなたが誤ることは十分にありうる。 --- 一方において、あなたは真 実チャールズを苦痛から救いたいと思っている。どころがまた、他方においては、あなた は彼が邪魔だとも思っているとしよう。このような場合、あなたはどちらの動機が自分を そうさせたのかに関して誤るかもしれない。
(参考文献davidsonp.24)
「チャールズを苦痛から救おうとした」という観察と、「邪魔なチャールズを殺そうとし た」という観察について、デイヴィドソンはどちらかの観察が正しければ、もう一方の観 察は誤っていると考えている。しかし、私にはどちらが正しくて、どちらが誤っていると は言えないように思われる。ここでは第二次的観察によって、行為は重層的な脈絡をもつ ものとして現れているのではないだろうか。もっともどちらかの観察がコミュニケーショ ンの過程の中で否定されることもあり得ることであるが、常にそうならなければならない ということはないだろう。では、なぜデイヴィドソンは一方の観察を排除しようとするの か。それは彼が「スイッチをいれる」と「明かりをつける」のような互いに矛盾しないよ うな観察しか認めないからである。もし、互いに矛盾するような観察を認めれば、行為に 一貫した説明を与えることができなくなってしまう。それは、自制を欠いた行為にさえも 一貫した説明を与えようとする*13デイヴィド ソンにとっては耐えられないことだろう。しかし、重層的観察においては、そのような矛 盾が避けられない場合があるのであり、行為には必ずしも一貫した説明を与えることはで きないのである。
ルーマンは行為を構成要素とする社会システム理論を展開していた頃から期待(予期 Erwartungen) という概念によって社会システムを捉えてきた。*14 それは、ごく短い時間しか存続しえない行為という出来事を構成 要素とする社会システムにとっては、期待以外による構造形成は不可能だからである。コ ミュニケーションを構成要素とする社会システム理論への転回の後も、期待概念の重要性 は変わらない。「社会システムの構造は、一般化された行動期待として定義され」 *15るのである。
期待と行為とは深い関係にあるが、期待はけっして行為の属性なのではない。
パーソンズとはちがって、期待が行為の「属性」であると断定することはできない。精確 に言うと、期待と行為の関係は、行為からみると、構造と行為の関係意外のなにものでも ない。さらに構造と行為の関係は、一般に認められているとおり、互いに一方が他方を可 能にしている関係なのである。
(参考文献[luhmann84]p.548)
つまり、期待と行為の関係は、意図と行為の関係と同様、構造と過程の関係なのである。 ただし、期待と行為の関係と意図と行為の関係は、意図が行為そのものの構造であるのに 対し、期待は行為とは別個の構造であるという点において、異なっている。社会システム において、行為の意図が見い出される時には、期待構造が重要な役割を果たしている。例 えば、車の運転をしている人には、交差点で右折する時に、右折の合図をすることが期待 されている。ゆえに、車の運転をしている人が、交差点で手を上げる行為は、「右折の合 図をしよう」という意図によって記述されるのである。
また、ルーマンは期待について次のように語っている。
期待は、意味の形式なのであり、心理システム内部の事象であるとは考えられない。
(参考文献[luhmann84]p.549)
これも私が意図について主張したいことと同じ内容を含んでいる。ただし、期待や意図が 心理システムと全く無関係であるわけではない。心理システムも社会システムと同様に期 待や意図といった形式を取り扱う。ただ、一般に信じられている、期待や意図が心理シス テム固有の問題であるという偏見を取り除くために、そうではないということを強調して いるのである。
さて、期待という概念を導入することで、我々は行為と決定の関係を論じることができる ようになる。決定という事態は、期待によって、期待にそった行為を行うか、行わないか という二者択一の選択がつきつけられることによって生じる。例えば、目の前にスープが 差し出されれば、スープを飲むという期待された行為を行うか行わないかを選択しなけれ ばならないし、水道料金の請求書が送られてくれば、料金を払うという期待された行為を 行うかどうかを選択しなければならない。
決定についてそうした考え方をすると、決定についての通常の想定、すなわち、決定とい う統一体を、選好という統一体(それがどれだけ集合化されたものであろうとも、どんな に対価を払ってまとめられたものであろうとも)の現れとして解する見解は放棄される。
(参考文献[luhmann84]p.551)
デイヴィドソンの欲求-信念モデルの場合、まず何かをしたいという欲求があって、それ に信念が伴って、行為が行われることになる。しかし、ルーマンの決定理論においては、 欲求(選好)と信念(期待/予期)の関係は逆になっている。まず期待があって、そしてその 期待にそった行為を行うか行わないかの決定がなされるのである。選好は決定に関わる付 属的な要素の一つに過ぎない。行為における決定という事態はけっして欲求に還元され得 るようなものではないのである。
また、ルーマンは行為に決定という意味を付与するのが行為者自身なのか、それとも観察 者なのかということを、決定することを拒んでいる。「行為することは、そもそも決定で あるかぎりでだが、誰かにとっての決定なのである。」*16 しばしば、何もしないことも一つの決定とみなされる。 例えば、会議中にある提案について「異議はありませんか」という質問が発せられた場合、 黙っていることはその提案に賛成するという決定をしたことであるとみなされるかもしれ ない。逆に期待にそった行為をしても、決定とみなされない場合もある。それはルーティ ン化された習慣的な行為である。例えば、交差点で右折の合図をする行為は習慣的な行為 であり、そこには決定という契機は見い出されない。しかし、このような行為も意図的行 為とみなされ得るのであり、事実そのようにみなされている。それは、そのような行為に おいて、行為に先行する意図という心的作用が働いているからではなく、社会システムに おいて、期待構造に基づいて行為に意味が付与されていることによっているのである。
ここで、もう一度、菅豊彦の挙げた例を見てみることにしよう。
私が、料理をした人を怒らせるために、彼の作ったスープを飲むとき、まずそうに顔をし かめようと意図する。そしてスープを飲んだところ、そのスープがあまりにもまずいので 思わずまずそうに顔をしかめたとする。--- しかし、我々はこの動作を意図的行為とは言 わないであろう。
この場合、料理人が怒ったとすれば、確かに「まずそうに顔をしかめる」という動作を「 料理をした人を怒らせる」と再記述することができるが、これを意図的行為と呼ぶことは できないだろう。しかし、だからといって意図と行為の間の因果性を持ち出さなければ、 この事態を説明できないということはないように思われる。なぜなら、この場合、彼に「 何故まずそうに顔をしかめたのか」と質問したとしても「料理をした人を怒らせようとし たからだ」とは答えないだろうからである。むしろ、「はじめは料理をした人を怒らせよ うと思っていたのだが、スープがあまりにも辛かったので思わず顔をしかめてしまったの だ」と答えるだろう。この場合、アンスコムの言い方に従えば「何故?」という問は受け 入れられなかったことになる。なぜなら、彼は単にその振舞いの原因(アンスコムの用語 に従えば心的原因)を述べているに過ぎないからである。この例はアンスコムの説の「行 為の再記述」という面にのみ注目したために、誤って挙げられたものなのである。
また、デイヴィドソンを含めて、行為の因果説の論者は、アンスコムの説の「観察によら ない知識」や「行為の再記述」といった側面のみを取り上げているが、アンスコムが行為 の意図をコミュニケーションという局面の中で捉えようとしていたという点を見逃してい るように思われる。
このような背景から、菅は因果性を持ち出さなければこの問題は解決できないとし、知覚 の因果説を持ち出してさらに説明を加える。
私が部屋の隅に猫がいるのを知覚していると言えるためには、次の三つの条件が必要であ ることがしばしば指摘されてきた。(1)、私にその猫がありありと見えていること、つま り私がその猫の知覚体験を持っていること。(2)、(1)に基づいて、そこに猫がいると私が 信じること、つまり、知覚的信念をもつこと。(3)、私が信じている通りに、事実その猫 がそこに存在すること。
(参考文献[kan]p.130)
だが、これだけでは知覚が成立しているとはいえない。なぜなら、私の大脳をいじるなり、 三次元スクリーンなどを使うなりして、私に猫がそこにいないのにいると信じこませるこ とは可能だからである。その上で、私が猫がいると信じている場所に猫を置いてやれば、 上記の条件はすべて満たされることになる。が、この場合は知覚が成立していると考える ことはできないだろう。知覚が成立していると言えるためには、対象と知覚的信念の間に 因果関係がなければならない。そして、これと同様のことが行為についても言えるのであ り、行為と意図の間にも因果関係がなければならない、と結論づける。以上が菅の議論で ある。
しかし、知覚と幻覚の区別はどのようにして私に知られるのか。ここでは、知覚と幻覚に よって与えられるものが同じであることが前提とされているのだから、大森荘蔵の言葉を 借りるなら、それ自体としては「虚実無記の立ち現われ」であり、知覚と幻覚は区別でき ないのではないか。知覚が幻覚と区別されるためには、その知覚が後に接続する他の知覚 によって幻覚であると判断されなければならないのではないだろうか。例えば、遠くに人 影を見た(と思った)とする。この時点ではそれが知覚か幻覚かの区別はつかない。そこで 近づいてみると、それが木であったことがわかったとする。ここではじめて人影に見えた のが幻覚(見間違い)だったことがわかるのである。もちろん、木に見えたからといって、 それがまた幻覚ではないとは言い切れないのだが、その後の知覚によって幻覚であったと 判断されないかぎりにおいて、我々はそれを幻覚ではなく知覚とみなす。つまり、知覚と 幻覚を区別することができるのは知覚だけなのである。
同様のことがコミュニケーションについて言えることは既に 社会システムのオートポイエーシスで見たとおりである。 したがって、コミュニケーションにおいて見い出された意図を、その行為の 意図ではないとして修正できるのはコミュニケーションだけなのである。しかし、他者の 意図については確かにそう言えるかもしれないが、私の意図はどうなのか。私の意図につ いてはコミュニケーションなしに確認し得るのではないか。そのような反論があるかもし れない。次節ではそのことについて検討してみたい。
今まで心理システムという言葉を定義することなく使ってきたが、ここでルーマンの定義 を確認しておこう。「心理システムは、意識をとおして意識を再生産しており、その点で は他に依存することなく自律しているシステムであり、つまり、意識を外部から手に入れ ることもなければ、意識を外部に引き渡すこともないシステム」*17である。つまり心理システムと社会システムは、それぞれ独立 に自らのオートポイエーシスを維持するのであり、意識がコミュニケーションに還元されること も、コミュニケーションが意識に還元されることもない。
さて、既に伝統的な行為概念で述べたとおり、「明日、郵便局へ行って切手を買おう 」などと思うことがあるのは否定できない事実である。しかし、すべての行為にそのよう な意図を求めることはできない。特に、習慣化された行為などには、そのような具体的な 心的作用としての意図は見い出されないだろう。それにもかかわらず、そのような行為も 意図的行為とみなされる。それは心理システムにとっての意図の二面性を考慮しなければ、 理解できない事態である。一方で、心理システムは社会システムと同様に、行為の意味を 処理するための形式として意図を用いる。他方、心理システムにおいて、その時点でまだ なされていない行為を為そうという意図が生じることがある。後者の意図はそれ自体一つ の出来事であり、したがって過程であり、前者の構造としての意図とは区別される必要が ある。この区別によって、意図と行為の関係をめぐる議論の混乱の原因が明らかになる。 反因果説の論者が構造としての意図によってすべての意図を説明しようとしてきたのに対 し、因果説を支持する論者は過程としての意図によってすべての意図を説明しようとして きたのである。前者の構造としての意図と行為との関係はこれまでの議論ですでに明らか にしたように、因果関係であるとは考えられない。では、後者の過程としての意図と行為 との関係はどうだろうか。もし因果関係があるとすれば、それは菅豊彦が指摘するように、 意図と行為の間ではなく、意図と振舞いの間の関係だろう。つまりこの問題を解くために は心身問題に答を与えなければならない。残念ながら、現時点の私にはこの問題に答を与 えることはできない。ただ、この問題について一つだけ言えることは、もし身体システム がオートポイエティック・システムであるならば、身体システムの作動が心理システムに よって規定されることはあり得ないだろうということである。
最後に、他者について語ることによってこの論文を締め括りたいと思う。心理システムに 固有の過程としての意図に固執するかぎり、我々は他者の意図を語ることができなくなっ てしまうように思われる。そのことを野矢茂樹は次のような例によって鮮明に描き出して いる。*18 人間とまったく同じように振舞 うロボットがいたとする。ロボットの振舞いは人間のそれとまったく区別がつかない。そ れにもかかわらず、われわれはそのロボットの振舞いを行為とはみなさないだろう。なぜ なら、ロボットには心がないからである。ところが、ここに<神>が登場し、ロボットに 心を与えたと言う。しかし、ロボットの振舞いはそれまでとまったく変わらない。いった い何が変わったというのだろうか。<神>は心を与えられたロボットには意志があり、自 分の意志で行為しているのだと答える。だが、意志とは何か。<神>は意志とはお前が持 っているそれだと答える。とすると、私のこの意志をロボットに与えるのか。しか し、私の意志はあくまでも私の意志なのであり、それをロボットに与えても、ロボ ットが手を上げるのではなく、私がロボットの手を上げることになってしまう。
これは一見詭弁のように思われるかもしれない。しかし、重要な示唆を含んでいる。私の 意志(ないし意図)はあくまでも私の意志なのであり、したがって、私の意志から出 発して他者の意志に至ることはできないのである。これは心理システムのオートポイエー シスによって説明される。心理システムは「意識を外部から手に入れることもなければ、 意識を外部に引き渡すこともない」閉鎖的なシステムなのである。このことは構造として の意図についても当てはまる。意識とコミュニケーションは意図という同一の形式を扱う が、そのことは心理システム間で直接的に意図の入出力が行われることを意味しないので ある。
では我々は(あるいは私は)けっして他者に出会うことはないのだろうか。意識の繭に閉じ こもり、孤独に生きるしかないのだろうか。いや、そんなことはない。なぜなら、社会シ ステムにとっては他者は常に自明なものとして現れるからである。ルーマンの言葉を借り れば、我々が他者に出会うことができるのは「他我を前提とした社会システムにわれわれ が相互浸透しているから」*19なのである。
G.E.M.アンスコム、 『インテンション--実践知の考察--』、 菅豊彦訳、産業図書、1984年、194頁
D.デイヴィドソン、 『行為と出来事』、 服部裕幸・柴田正良訳、勁草書房、1990年、342頁
菅豊彦、 「行為と因果性」、 九州大学哲学研究室編、 『行為の構造』、 勁草書房、1983年、226頁
H.R.マトゥラーナ/F.J.ヴァレラ 『オートポイエーシス』、 河本英夫訳、国文社、1991年、317頁
河本英夫 『オートポイエーシス 第三世代システム』、 青土社、1995年、340頁
N.ルーマン、 『公式組織の機能とその派生的問題』、 沢谷裕・関口光春・長谷川幸一訳、新泉社、(上)1992年、237頁、(下)1996年、355頁
N.ルーマン、 『社会システム理論』、 佐藤勉監訳、恒星社厚生閣、(上)1993年、(下)1995年、上下2巻、970頁
N.ルーマン、 『自己言及性について』、 土方透訳、国文社、1996年、310頁
G.クニール/A.ナセヒ 『ルーマン 社会システム理論』、 舘野受男・池田貞夫・野崎和義訳、1995年、244頁
野矢茂樹、 『心と他者』、 勁草書房、1995年、256頁
*1 参考文献[anscombe]p.17参照。
*2 参考文献[anscombe]p.20-48参照。アンスコムの議論はもっと複雑だ
が、以下では第17節でまとめられている三つのケースについて説明する。
*3 邦訳はintentionを意志と訳しているが、他の箇所との関係から意図に置き換
えさせていただいた。(参考文献[anscombe]p.53)
*4 参考文献[anscombe]p.73-77参照。
*5 参考文献[davidson]p.2-26参照。
*6 システムを単位体として規定し、システム
が経る相互作用や変換のダイナミクスを規定する諸関係。
*7 自動車のように、その機能が自分自身と
は異なったものを産出するシステム。
*8 参考文献[luhmann84]p.801参照。
*9 このことからヴァレラはオートポイエーシスの適用対象を、細胞、免疫、神経
の各システムに限定すべきだと主張している。
*10 システム分化においては、システム-サブシステムという形で階層関係が生じ
るが、その問題はここでは取り扱わないことにする。
*11 『社会システム理論』 第4章 第8節
*12 野矢茂樹はウィトゲンシュタインのアスペクトという概念を用いて、単層的
観察/重層的観察と同じような関係にある、単相状態/複相状態という用語によって意図を
説明している。(参考文献[noya]p.131-153)
*13 参考文献[davidson]第二章。
*14 参考文献[luhmann64]
などを参照されたい。
*15 参考文献[luhmann84]p.548
*16 参考文献
[luhmann84]p.551
*17 参考文献
[luhmann84]p.493
*18 参考文献[noya]p.57-68参照。
*19 参考文献[luhmann90]